Blenderをずっと触っていた、この三連休は。
デイリー六法を買いに本屋に行った折、ふとBlenderの参考書コーナーに迷い込んだが最後、約5000円の書籍を購入してしまった・・・。
結局デイリー六法は買わなかったので本来の目的と違う買い物になってしまったが、これもリアル書店に行く醍醐味だろう。
(Blenderとは、無料で使える3DCG制作ソフトのこと)
最近は法学に興味が湧いてきて勉強していたり、前述のようにBlenderに熱中していたりと、何かと忙しくしている。
やりたいことがたくさんあって、時間がや気力が全く足りていない。
暴走する情熱に振り回される気の毒な体の持ち主。あぁ可哀想なこと。
以前からリカレント教育を受けることに漫然とした関心があったのだが、そろそろ実行に移してみようということで、4月から一年だけ放送大学に在籍して講義を受けてみようと思っている。
無理をしてもいけないので、前期はまず2科目、法学系の科目ともう一つは情報系の科目にしようかな。
放送大学の講義は質が高いとかねてより聞いていたので、今からとても楽しみである。
しかし一番熱中していて、かつ厄介なのは、やはりBlenderである。
このソフトに触れたことがある人なら分かると思うが、一生かけても学びきれないのではないかと思うほどこのソフトは機能が多い。
数学的素養や映像の知識が求められる部分もあり、習得難易度が以上に高い。
機能を覚えたとて、結局のところユーザーにクリエイティビティがないとBlenderは宝の持ち腐れになってしまう。
しかしこのじゃじゃ馬のようなソフトはどうしようもなく面白い。
なんせ、自分の頭にあるあれやこれやの妄想や原風景をスキルさえあれば再現できてしまうのだ。
もはやBlenderを知る前の人生と知った後の人生とでは、コペルニクス的転回が起きたかのように見える景色が違う。
あれもこれも、何もかも、その気になれば自分にだって作り出せないことはないのだ・・・。
こんな素晴らしいことがあるか?
僕はBlenderよりも面白いものに未だかつて出会ったことがない、なんて言うのは大袈裟だろうか。
しかし、人生が壊れるのではないかと本気で心配してしまうくらい、Blenderに心奪われている。
仕事を辞めて、Blenderの学習に一日中時間をかけられたら、どんなに幸せなことだろう・・・叶わぬ妄想である。
Blender熱を一旦覚まそうとしてマクドナルドにやってきて、今iPadに外付けキーボードを接続してこの下手な文章を書いている。
そうだ、ここ最近はキーボードにもハマっていたのだ・・・。
来月には30歳になる。
今のところ、人生において何もやる気がでないとか、やりたいことがないといった悩みには無縁なので、ありがたいことだと思った方がいいのかもしれない。
10年後もBlenderをやっていたらいいな・・・。
しかし、ざっと読み返してみると、熱に浮かされた精神病人の日記のような文章を書いてしまった。
- 13, 1, 2025
久しぶりに学生の頃のような泥臭い旅をしてみると思いの外楽しい。
旅に出るのを決めたはいいものの面倒だ、なんて気持ちも出かけるまではあったが、いざローカル列車に揺られてみれば何とも、言えない喜びが込み上げてくる。
結局自分はこういうものを求めていたのだろうか?
まだこういう旅を楽しめる感性が残っていることが少し嬉しい。
美術館は苦労して行くくらいがちょうどいい。
熊本は津奈木という町の小さな美術館には、台湾出身のアーティストの絵が展示されていてどれも自分の好みに合うものだった。
この美術館にはなぜかモノレールが設置されており、片道5分ほどで美術館裏の山を登ることができる。
山頂には日本国旗が掲揚されていて、風にはためいていた。
よく話しかけてくれるおばちゃんに添乗してもらい、往復のモノレール登山を楽しんだ。
水俣に着いたらすぐにホテルに向かった。
チェックインして部屋で少し休んだあと、狙っていた近くの町中華へ向かったが、開いていなくて落胆した。
仕方なく少し歩いては大衆食堂に入り、ミックス定食を頼んだ。
ご飯は大盛り、味噌汁は豚汁に変更して、お題はちょうど1000円也。
ケチャップのかかったハムカツがやけにうまく、白身魚のフライとオムレツでもご飯が進む。
豚汁はどうやらちゃんぽんのスープらしかった。
水俣のちゃんぽんは水俣ちゃんぽんと呼ばれ、白っぽいスープが特徴らしい。
塩味が強く効いていて、豚汁としてもうまい。
地元客はちらほら。全員1人で来ている常連らしき男たち。
苦しいくらい食べてチャルモゴッスムニダ。
帰りにファミマでビールを買っていく。
宿に戻ったらシャワーを浴び、適当にYouTubeで動画を見て、ビールを飲んだ。
すでに何度も観た映画『ドライブ・マイ・カー』を途中まで観る。
少し疲れたが、その疲れが今日は良き一日だったと伝えている。そろそろ寝る。
- 24, 12, 2024
一人でピザを食べようと思って、スマホアプリから宅配を頼んだ。シンプルなピザ一枚。
注文が終わって、クレジットカードでの決済も済んだはずなのに、いつもの注文完了画面が開かなかった。
少しの間あれこれアプリを触ってみたが、うまく注文できた痕跡がなかったので、もう一度同じピザを注文した。
もはや案の定と言うべきか、ピザが届いてしばらくすると二度目のチャイムが鳴り、もう一度同じピザが届いた。
一度目の注文はどうやらちゃんと成立していたらしい。
短時間に二度同じピザを届けてくれた配達員には悪いことをしたと思う。
何だこの客は、変な注文しやがって、ときっと裏で文句を言われただろう。
仕事で上司が、うまく話が通じない相手について当人がいないところで「何やこいつ」とSlackに書いていた。
どうしてこういうことをうっかり書いてしまうのだろう?と呆れるのと同時に不思議だった。
僕なんかとは比較にならないような立派な学歴や経歴があるのだが・・。
嘆いたところで渡る世間は鬼ばかり、こんなことでいちいち何かを思っていては仕方がないのだけど、恣意的な攻撃性を含んだ言葉を仕事で平気で使う人間は嫌いだ(好きな人はいるのだろうか?)。
大げさだが、世界から争い・諍いがなくならないのは必然だとつくづく思う。
根本的に自分とは価値観が異なる人間がたくさんいて、そういう人たちと社会では伍していかなければならないのだから、その過程で何の摩擦も生じないわけはない。
戦争が起きるメカニズムとか、そんなことまでは分からないけど。
働けば残念な上司の元に就かされるし、ピザを食べようとすれば注文ミスをするし(余分に届いた一枚は冷凍した)、何かをするということは何かしらのリスクを取ることに他ならない。
リスクを取らないこと(つまり傷つかないこと)を第一に考えるならば、とにかく引きこもって何もしないことに尽きる。
働かない、食い意地を張らない、尊敬されようとしない、恋をしない・・・。
僕はそんなリスクを取らない生き方にも飽きた(一時期そういう生き方をしていたことがある)ので、やむを得なく自分ができる範囲で社会生活を営んでいるが、改め人生のそこかしこに潜む罠の多さに思いを馳せると、毎日、いやこの一瞬一瞬がほとんど奇跡であると感じられる。
まぁそうした感覚は僕がクリスチャンであることにも拠るのだろうが・・。
次の瞬間の安定や安寧さえ実は約束されていない瞬間の積み重ねが1年であり、10年であり、100年なのだ。
せっせと無言で回転を続ける母なる大地はそれをきっと知っているだろう。
疲れて布団に身を投げ、青葉市子の歌を聴いていたら、水のように涙が流れた(実際、涙は水だが)。
天使のように美しい歌声が体に浸透して、感情を経由する前に自然な反応として涙が出る。
青葉市子の歌にはそういう力があって、とても普通の歌手ではないと僕は思う。
人に好きなアーティストを訊かれたらaikoを真っ先に挙げるのだが、本当は青葉市子と言いたい気持ちがある(もちろんaikoは本当に好きだけど)。
でも十中八九相手は青葉市子のことを知らなくて話が途切れるので、やはりaikoと答えるのが間違いのない選択ではある。
青葉市子を知らない人に、僕の足りない言葉で彼女の音楽について語るのも気が引けるし。
しかし思うに、僕は青葉市子をほとんど崇拝してしまっていて、ちょっとそれは健全ではないかもしれない。
本当に、彼女が自分と同じ人間という種族であることが何だか受け入れがたいのだ。
彼女は天使、あるいは悲しみの妖精、あるいはセイレーン・・とにかく、人間よりずっと高次の存在のように思えてしまう。
気色の悪いことを書いてしまっているのかもしれないが、本当にそれくらい彼女の音楽は「違う」ものとして僕は享受している。
うん、やはり、こうした考えは健全ではなさそうだ。
しかし、真の芸術と、それにまつわる人間の感情だなんて大体が不健全なものではないか。
芸術という言葉を万能の盾にしてもいけないが、本来人間の気持ち悪い側面・正しくない一面を暴露してしまう力を持つのがアーティストだろう。
堂々と青葉市子が好きなんですと人に自己紹介できる日は来ないかもしれないけど、それでいいやと思う。
僕にとって必要なものはすでに与えられていて、それは他人からの視線や評価によって簡単に動かされるものではないからだ。
- 7, 10, 2024