19時18分。ここはマクドナルド。まだ外は明るい。
段々と日が長くなっていくのを横目に月日の上を歩いている。
まるでプログラムされたかのように反復する日常を打ち破りたくて、エラーを起こしたくて、日々色んなことをやってみる。
季節もまたプログラムのようなものに過ぎなかったら何だか虚しい。春の次は夏、その次は秋で、冬までいけば一巡。たまにエラー。
昼休みには相変わらず公園に行くのが好きだが、梅雨が始まるので明日からは当分行けなそう。
今日は公園の中心にある木に囲まれたベンチに横たわった。
木漏れ日を浴び、日を通して半透明に光る葉を眺めるともなく眺め、耳に挿したAirPodsで聴くのは青葉市子の歌。
目を閉じては、あてもない感傷にふける・・・。
およそ10年前の、消化しきれないままに風化していく思い出が蘇る。
10年後には、ほとんど忘れてしまっているのだろうか。それは嫌だな。
曲が『海底のエデン』から『アンディーブと眠って』に変わるあたりで半分眠りにつく。
幸い数分で目が覚める。危ない、昼休みが終わってしまう。
何か愉快で心地よい夢の残滓が頭の中を泳いでいる。
終わらない日常を生きながら祭りを心待ちにしている。
その祭りを、僕は見たことも聞いたこともない。ただ、それが来るのを待っている。
ずっと待ってばかりいるのも退屈だから、日常的に小さな祭りを開く。
国境に地雷を埋める任務中の兵士のように、あまり間隔を空けないように調整しながら。
明日は雨雲が来る。
それは祭りを連れてきてくれるか?
ならば僕は雨に打たれることも厭わないし、ずっと雨が降り続けばいいと思う。
- 19, 6, 2024
最近、PCで 『Hellblade』 というゲームをプレイしたのだが、これがかなり強烈な印象を残す作品だった。
ヴァイキングの時代の北欧を舞台に、主人公の女性セヌアは死んだ恋人の魂を救うため死の国(ヘル)へ旅をする、というあらすじ。
このゲームが独特なのは、主人公のセヌアが重度の精神疾患を患っており、断続的に幻聴・幻覚に悩まされているという点だ。
十中八九統合失調症なのだが、この病こそが本作のゲームプレイ・ストーリーテリングの始点であり終点である。
セヌアの頭の中にはほとんど常に数人の声が響いている。
「もうだめだ」とか「こんなところ来るべきじゃなかった」とか、「失敗した」とか、大体においてネガティブな言葉ばかりである。
幻覚もひどく、画面に映る敵や風景なども、一体どこまで本当に存在するものなのか、あるいはどこまで幻なのか、プレイヤーも判断できない。
蛮族らしき格好をした男たちがどこからともなく現れ、激しい戦闘が繰り広げられるのだが、果たして本当にその敵たちは実在するのか、そんなことも定かでないままにセヌアは剣を振るう。
そもそも、本当にセヌアには恋人がいたのか、それすら疑わしくなってくる・・・。
自分でセヌアを操作しておきながら、だ。
一応、最後にはセヌアにとって前向きな結末を迎えるのだが、全編にわたって漂う不穏な空気感がとてもよかった。
実際の精神病患者や医師からの取材をもとに制作されたらしく、非常にリアルな描写で統合失調症患者の見る世界を疑似体験できる。
プレイしていて非常に疲れるゲームではあったが、たまにはそういう体験も良し。
実は、統合失調症という病気に昔から関心がある。
もしかしたら、統合失調症の病人こそが真実を見ていて、一応まともだとされている僕たちが狂っていたらどうしよう?なんてことを考えるのが好きだった。
市民に対して集団ストーカーを徹底的に行う集団が実際にあったら?
あるいは、統合失調症と必ずしも関係しないが、本当にディープステートが国際社会を裏から全てコントロールしていたら?
どうしてそれらが妄想だと言い切れるのだろう?
もちろん、現実的にそうした謎の結社は存在しないという仮定を所与の条件として受け止めないと、共同幻想によって成り立つこの社会はあっという間に崩壊するだろう(アメリカが起きていることがそれだ)。
ただ僕は、集団ストーカーやディープステートの存在を議題にした終わりのないディベートを脳内でやめられない。
僕が実は狂人で、狂っているとされる人々こそが実は真実を見ていた、なんてことが現実になるのを心のどこかで待ち望んでいる。
だって、そんなことが起きたら面白すぎるから。
本来何も確かでない世界で、自分が見る(視る)ものを確かなものとして仮定しなければ人は歩めない。
これは信仰においても同じようなことが言えるだろう。
神が存在することを数式で証明することはできない。
数式で証明される神がいたとしたら、それは逆説的に神ではないということの証明になる。
神とは人間の理を超えた領域の存在であるから神なのであり、数式で証明された神に対する信仰はただの「現実認識」でしかないからだ。
数式で証明できない存在をただ「信じる」営みによってのみ、神は社会的に存在し得る。
僕はキリスト教徒であり、イエスを信じているが、イエスが神である証を肉眼で見たわけではない。
統合失調症患者が幻の声を聴くように、セヌアが自分の生み出した敵と闘うように、あるいは平成初期の大学生が麻原彰晃を信じたように、僕は神を信じる。
言い換えれば、僕が神を信じるように統合失調症患者は幻の声を聴き、セヌアは自分の生み出した敵と闘い、平成初期の大学生は麻原彰晃を信じた。
神が信じられることによって神として存在するように、人間は見えないものを視ることによって人間らしくあれるのだろう。
僕もセヌアもそういう意味で「人間らしい」のだ、なんてことを考えている。
- 30, 5, 2024
平日の昼休みに、近所の大きな公園でレジャーシートを敷いて寝っ転ぶのが好きだ。
土日ならともかく、平日は人が少なく成人男性が1人で寝転んでいても目立たない(おそらく)。
いつものようにレジャーシートの上でごろごろしていると、ふと、これは蟻の目線だ、ということに気づく。
その時、僕は地面を歩き回る蟻と(ほぼ)同じ目線で世界を見ている。
そうか、この公園は僕にとっては一つのそれなりに大きな公園に過ぎないが、ここは一匹の蟻にとっては全宇宙の全てなのだ。
例えば、僕の指に止まった蟻がこの公園の反対側にある手洗い場を目指すのは、僕が地球から数光年先にあるアルファ・ケンタウリ星系を目指すようなものかもしれない。
この公園で生まれた蟻は外の世界を知らないまま死ぬのだろう。
風に飛ばされ、人間に踏まれ、鳥に啄まれ、死んでいくのだろう。
考えてみたら人間と大差ない。
自然災害で死に、野獣に食われ、憎しみのうちの殺し合いに果てる。
風の前の塵に同じ、ならぬ、公園の地の蟻に同じ。
神の前に立つ人は、まさしく蟻のように小さく無力だ。
こんなことを取り留めもなく考えているうちに、あっという間に昼休みは終わりそうになる。
僕は立ち上がって靴を履き、レジャーシートを畳む。
このままどこかに旅に出る妄想などしながら公園を後にする。
今度は何の目線になれるだろうか。
- 27, 5, 2024