<?xml version="1.0" encoding="utf-8" standalone="yes"?><rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"><channel><title>たのしいはなし</title><link>https://www.tanohana.com/</link><description>Recent content on たのしいはなし</description><generator>Hugo</generator><language>ja</language><lastBuildDate>Mon, 18 May 2026 00:00:00 +0000</lastBuildDate><atom:link href="https://www.tanohana.com/index.xml" rel="self" type="application/rss+xml"/><item><title>セイレーンを求めて</title><link>https://www.tanohana.com/blog/seeking-the-siren/</link><pubDate>Mon, 18 May 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/seeking-the-siren/</guid><description>&lt;p&gt;二面性のある人が好きだ。それは人当たりがいいけど実はすごく性格が悪いとか、一途に見えて浮気性だとか、そういうことではなく、天使でありながら悪魔である、みたいなこと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;天使のような歌声を持ちながら、それに釣られた船乗りをあの世へ誘うような人。
そんな人に強く心を惹かれる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なぜ惹かれるのか、長いあいだ分からなかった。
たぶん、自分がそうでありたいからだ。
歌うことと殺すことが、同じ口から出てくるような人間に。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;青葉市子という歌手が僕にとってはそのような存在だ。
きっと彼女は歌いたいから歌っているだけで、その歌が美しすぎるから、結果として聴くものを死に近づける。
悪意がないところが、いちばん怖い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;美しいものは、たいてい何かを連れていく。
覚悟しなければならない。
何かを引き換えに差し出さなければならない種類の美が、この世には存在する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ルーヴルにサモトラケのニケが立っている。
首がない。腕もない。
それでも、というより、だからこそ、あの像は世界のどこにある彫刻よりも前へ進んでいる。
失われた部分を補おうとして見る者は、いつのまにか自分の何かを差し出している。
完璧であるよりも、欠けているほうが、人を遠くへ連れていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;青葉市子の歌も、たぶん同じだ。
それ自体で完成された美ではなく、聴いた者が進んで自分の生のほうを差し出してしまうような、そういう種類の美しさ。
連れていかれることまで含めて、美しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ニケよ、セイレーンよ、そして青葉市子。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;探しているふりをして、僕はずっと、そちら側になりたいのだと思う。
そして、たぶん、なれない。
僕は選ばれし存在ではない。
分かっているけれど、だからこそ、つくっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つくることの痛みこそ生の実感である。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>堕ちるニケ</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-015/</link><pubDate>Sun, 17 May 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-015/</guid><description/></item><item><title>背中の羽</title><link>https://www.tanohana.com/blog/wings-on-the-back/</link><pubDate>Tue, 05 May 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/wings-on-the-back/</guid><description>&lt;p&gt;本当は全てどうでもいいことなのに、遠慮がなければ思慮もない現実に足を絡め取られる。
ずっと、お金とか、キャリアのことで悩んでいる。
内的世界が充実するのと反比例して社会は生きづらくなる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このままではいけないと思っている。
自分の行く先は真っ暗なのではないかと感じることも増えてきた。
狭い部屋では思考は行く先もなく、すっかり重くなった身体の底に沈殿する。
うまくもないiQOSを吸いながらキッチンに座り込んで壁を眺める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ふと、去年万博に行った時のことを思い出す。
まだ知らない国の旗、反対側の大陸の初めての味、汗が吹き出すスポットライト、ぎこちないが心の通った会話。
あの日々、そこには希望しかなかった。
大屋根リングの中には、確かに「世界」があって、そのかけらに触れることができた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっともっと知らないものを知りたい。
もっと自分の手でものを作りたい。
美しいもの、醜いもの、下手なもの、取るに足らないもの。
自分にとって、生きることは作ることである、と胸が痛むほどに直感する。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ自分に言い聞かせているだけかもしれないが、羽は折れていても片足でだって歩ける。
今は芸術をやることを諦められない。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>Blow</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-014/</link><pubDate>Thu, 26 Mar 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-014/</guid><description/></item><item><title>Soft sun</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-012/</link><pubDate>Mon, 02 Mar 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-012/</guid><description/></item><item><title>幸福という名の「おまけ」について</title><link>https://www.tanohana.com/blog/happiness-as-bonus/</link><pubDate>Thu, 26 Feb 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/happiness-as-bonus/</guid><description>&lt;p&gt;政治もAIも、人を真に幸せにすることはできない。それらは日々の苦痛を緩和し、一時的な希望を供することはあっても、所詮はその程度が関の山だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人間が人間として幸福に生きるためには、もっと本質的なものが欠かせない。例えば、充実した人間関係、社会的な承認、あるいは精神の安定。そうした要素が相互に補完し合うことで、ようやく人は「幸せ」と呼べる状態に辿り着ける。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その点、特定の政治家があなたを幸せにすることはないし、ChatGPTもGeminiもClaudeも同様だ。僕自身、今まさにAIという存在に深く傾倒しているが、その事自体は僕の幸福に直接的に関連しない。誰も何もあなたに大切（essential）なものを提供してはくれない。「あなたを幸せにする」と豪語する政治家は警戒すべきだし、「AIを使いこなして人生の勝ち組になろう」と消費を煽る言説に惑わされる必要はない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;極めて個人的な見解だが、そもそも「幸せになれるか」を積極的に志向すること自体、あまり意味がないことだと思っている。幸福は、生育環境や遺伝子、あるいは運命といった不確定な要素に無限に左右され続けるものだからだ。極論を言えば、抗うつ薬によってセロトニンを調整すれば、平均的な人間なら誰しもそれなりの「幸せ」を感じることができる。すごくシニカルに言うなれば、幸福とは実のところその程度の現象に過ぎない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ、誰かや何かが自分を幸せにしてくれることを夢見ない方がいい。それより大事なのは、ただ目の前のことに邁進するとか、あるいは壮大な夢を追い続ける、とか、まぁ何でもいいのだが、何にせよ自分なりの生を全うする以外にやるべきことはないのだ。その結果として、ふと「あぁ、今は幸せだな」と感じる瞬間が訪れたなら、それは幸運なことだ。それは懸命に生きた過程で手に入れた、ささやかな「おまけ」のようなもので、その時はその幸せを存分に味わえばそれでよい。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>Skull</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-010/</link><pubDate>Tue, 24 Feb 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-010/</guid><description/></item><item><title>ミャクミャクの涙</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-011/</link><pubDate>Tue, 24 Feb 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-011/</guid><description/></item><item><title>犬とタコ</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-013/</link><pubDate>Tue, 24 Feb 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-013/</guid><description/></item><item><title>Flow</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-009/</link><pubDate>Fri, 09 Jan 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-009/</guid><description/></item><item><title>Reflection</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-008/</link><pubDate>Thu, 08 Jan 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-008/</guid><description/></item><item><title>Touch</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-007/</link><pubDate>Wed, 07 Jan 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-007/</guid><description/></item><item><title>Animal</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-006/</link><pubDate>Tue, 06 Jan 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-006/</guid><description/></item><item><title>Mask</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-005/</link><pubDate>Mon, 05 Jan 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-005/</guid><description/></item><item><title>Eye</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-004/</link><pubDate>Sun, 04 Jan 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-004/</guid><description/></item><item><title>Haze</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-003/</link><pubDate>Sat, 03 Jan 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-003/</guid><description/></item><item><title>Knot</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-002/</link><pubDate>Fri, 02 Jan 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-002/</guid><description/></item><item><title>Hand</title><link>https://www.tanohana.com/works/work-001/</link><pubDate>Thu, 01 Jan 2026 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/works/work-001/</guid><description/></item><item><title>人生が壊れちゃう</title><link>https://www.tanohana.com/blog/life-breaks/</link><pubDate>Mon, 13 Jan 2025 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/life-breaks/</guid><description>&lt;p&gt;Blenderをずっと触っていた、この三連休は。デイリー六法を買いに本屋に行った折、ふとBlenderの参考書コーナーに迷い込んだが最後、約5000円の書籍を購入してしまった・・・。結局デイリー六法は買わなかったので本来の目的と違う買い物になってしまったが、これもリアル書店に行く醍醐味だろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（Blenderとは、無料で使える3DCG制作ソフトのこと）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最近は法学に興味が湧いてきて勉強していたり、前述のようにBlenderに熱中していたりと、何かと忙しくしている。やりたいことがたくさんあって、時間がや気力が全く足りていない。暴走する情熱に振り回される気の毒な体の持ち主。あぁ可哀想なこと。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以前からリカレント教育を受けることに漫然とした関心があったのだが、そろそろ実行に移してみようということで、4月から一年だけ放送大学に在籍して講義を受けてみようと思っている。無理をしてもいけないので、前期はまず2科目、法学系の科目ともう一つは情報系の科目にしようかな。放送大学の講義は質が高いとかねてより聞いていたので、今からとても楽しみである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし一番熱中していて、かつ厄介なのは、やはりBlenderである。このソフトに触れたことがある人なら分かると思うが、一生かけても学びきれないのではないかと思うほどこのソフトは機能が多い。数学的素養や映像の知識が求められる部分もあり、習得難易度が以上に高い。機能を覚えたとて、結局のところユーザーにクリエイティビティがないとBlenderは宝の持ち腐れになってしまう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかしこのじゃじゃ馬のようなソフトはどうしようもなく面白い。なんせ、自分の頭にあるあれやこれやの妄想や原風景をスキルさえあれば再現できてしまうのだ。もはやBlenderを知る前の人生と知った後の人生とでは、コペルニクス的転回が起きたかのように見える景色が違う。あれもこれも、何もかも、その気になれば自分にだって作り出せないことはないのだ・・・。こんな素晴らしいことがあるか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;僕はBlenderよりも面白いものに未だかつて出会ったことがない、なんて言うのは大袈裟だろうか。しかし、人生が壊れるのではないかと本気で心配してしまうくらい、Blenderに心奪われている。仕事を辞めて、Blenderの学習に一日中時間をかけられたら、どんなに幸せなことだろう・・・叶わぬ妄想である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Blender熱を一旦覚まそうとしてマクドナルドにやってきて、今iPadに外付けキーボードを接続してこの下手な文章を書いている。そうだ、ここ最近はキーボードにもハマっていたのだ・・・。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;来月には30歳になる。今のところ、人生において何もやる気がでないとか、やりたいことがないといった悩みには無縁なので、ありがたいことだと思った方がいいのかもしれない。10年後もBlenderをやっていたらいいな・・・。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、ざっと読み返してみると、熱に浮かされた精神病人の日記のような文章を書いてしまった。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>ORANGE</title><link>https://www.tanohana.com/blog/orange/</link><pubDate>Tue, 24 Dec 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/orange/</guid><description>&lt;p&gt;久しぶりに学生の頃のような泥臭い旅をしてみると思いの外楽しい。旅に出るのを決めたはいいものの面倒だ、なんて気持ちも出かけるまではあったが、いざローカル列車に揺られてみれば何とも、言えない喜びが込み上げてくる。結局自分はこういうものを求めていたのだろうか？まだこういう旅を楽しめる感性が残っていることが少し嬉しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;美術館は苦労して行くくらいがちょうどいい。熊本は津奈木という町の小さな美術館には、台湾出身のアーティストの絵が展示されていてどれも自分の好みに合うものだった。この美術館にはなぜかモノレールが設置されており、片道5分ほどで美術館裏の山を登ることができる。山頂には日本国旗が掲揚されていて、風にはためいていた。よく話しかけてくれるおばちゃんに添乗してもらい、往復のモノレール登山を楽しんだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;水俣に着いたらすぐにホテルに向かった。チェックインして部屋で少し休んだあと、狙っていた近くの町中華へ向かったが、開いていなくて落胆した。仕方なく少し歩いては大衆食堂に入り、ミックス定食を頼んだ。ご飯は大盛り、味噌汁は豚汁に変更して、お題はちょうど1000円也。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ケチャップのかかったハムカツがやけにうまく、白身魚のフライとオムレツでもご飯が進む。豚汁はどうやらちゃんぽんのスープらしかった。水俣のちゃんぽんは水俣ちゃんぽんと呼ばれ、白っぽいスープが特徴らしい。塩味が強く効いていて、豚汁としてもうまい。地元客はちらほら。全員1人で来ている常連らしき男たち。苦しいくらい食べてチャルモゴッスムニダ｡&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;帰りにファミマでビールを買っていく。宿に戻ったらシャワーを浴び、適当にYouTubeで動画を見て、ビールを飲んだ。すでに何度も観た映画『ドライブ・マイ・カー』を途中まで観る。少し疲れたが、その疲れが今日は良き一日だったと伝えている。そろそろ寝る。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>それらの夏</title><link>https://www.tanohana.com/blog/those-summers/</link><pubDate>Sat, 31 Aug 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/those-summers/</guid><description>&lt;p&gt;傷んだ髪を切るかどうか迷ううちに、いつのまにか暑過ぎた夏も終盤、日焼け止めの残りも少なくなった。どうやら僕の記憶にある「夏」というものと、今の夏は大きく異なってしまっていて、ここまで辛い季節じゃなかったんだけどな、などと思う。眩しい日差しが裏腹に落とす暗い影にこそ目を引かれるように、僕は今夏の終わりを見つめているが、一つの季節がまた無明に還っていくことへの感興も特になく、ただ太陽の円周運動が続いてゆく。ああ、やっと給料日だ、と思ったら、もう次の給料日がやってくるじゃないか、といったように。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今年は秋のフルマラソンを走らないことにした（マラソン大会に当選していたが辞退した）ため、地獄の練習を経ずに夏を終えられることにはいささかほっとしている。こんな暑さで10キロや15キロを日々走るというのはどうかしていて、そんな日々の練習を耐えられるほど僕は走ることが好きでも何でもない。2年連続でフルマラソンを走ったのは結構いい経験だったが、一旦走るのをやめてしまえばただの人である。筋肉は落ち、腹に肉が乗り（これはほとんどが暴食のせいである）、脚力が落ちたのを如実に感じる。村上春樹が20年以上毎年マラソンに出場し続けているのに少し憧れがあったが、どうにもならないほどに体は言うことを聞かず（また言うことを聞かせる気もなく）、ぱたりと走らなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;僕に言わせると、やはり、体を動かすよりも、直接的に自分の内的世界に沈潜していくような趣味の方がずっと面白い。そんなこんなで、ここ数ヶ月はずっとBlenderを触ることに何よりも喜びを感じている。こんな面白いものがあったなんて。それも無料でずっと遊べる趣味だ（ハイスペックなPCを用意する必要はある）。ジジイになったってBlenderで何かを作り続けているのがささやかな夢だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夏の話に戻る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;僕にとって、夏とは、たとえば、子どもの頃に夢中で川で魚を獲ったあの夏、あるいは、大学に入ったばかりで孤独なアパートで過ごしたあの夏、あるいは、社会人としての肩書きも曖昧でほとんど透明人間だったあの夏。それらの夏のどれを参照しても、こんなに暑くはなかったし、もう少しそこには季節としての風情があった。全てはどこに行ってしまったのか？跡形もなく消えてしまった気がする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あるいはこんな思いを抱くのは単に僕が歳を取っているからなのだろうか。まぁ、僕の甥っ子たちは今の夏を原体験として大人になっていくのだろうし、僕が経てきた夏を彼らは知る由もない。全てが相対としてしか存在しないのなら、僕にとっての「それらの夏」は僕の中にしか存在せず、そこから何かの論なり言説を取り出して一般化して語ることにどれだけの意味があるのだろう。いや、そもそも意味があるとかないとかいったことも相対的なものだし、違う、そんなふうに話を持っていきたいわけではない。まぁ、いいや。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この文章はそろそろ締めよう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;マクドナルドでiPadにタイピングしていると（なぜか僕は文章を書くときはマックに行くと決めている）、少しほっとする。それは、おじさんになりつつある僕にも、世界に対して伝えたいことが残っているということに気づけるからだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;20歳くらいの頃は、とにかく、世界に対してあれもこれも伝えたかった。俺はどういう人間なのか、何が好きで何をしたいのか、何が嫌いで何を憎むのか、あるべき世界のあり方について、人の生と死について。とにかく、誰かに何かを伝えないではいられなかった。それは若者が備えるやっかいな特質の一つだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今は淡々と日記のようなエッセイのような毒にも薬にもならない文章を書いている。誰に向けたものなのだろう？よく分からない。ただ世界に向けてこの文章を発信している。そもそも誰がこの文章を読んでいるのかも僕は全く知らない。もう20代前半に僕は十分自己主張をしてきたと思っているので、今はゆっくり、まったり。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;10年後、本当におじさんと言われるようになる頃にはどんな文章を書いているやら。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>夏バテする自由</title><link>https://www.tanohana.com/blog/summer-fatigue/</link><pubDate>Sun, 04 Aug 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/summer-fatigue/</guid><description>&lt;p&gt;これまでに経験したどの夏より今年が暑い。あんまりに暑いので、絶賛夏バテ中。とにかく、元より人並みより低いHP・MPがさらに半分に制限されているような、そんな感覚で、仕事にしろ生活にしろ何にしても力が湧いてこない。絵を描くのも、ギターを弾くのも、中国語を勉強するのも、全部おざなりになってしまっている。いやまぁ、夏バテを言い訳にしている節もあるのかもしれないが・・。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;唯一相変わらずで取り組んでいるのが、3DCGソフトのBlender。毎日2時間くらいはPCデスクに座ってBlenderを起動してうんうん唸りながら何かしらを作っている。29歳にして、それまでやったことのなかった3DCG制作にハマるだなんて・・。人生は本当に奇妙なものだという感じがする。いや、多分人生なんてそもそもカオスなものなんだろうとは思う。ただ僕らは普段「アラサーの人間が急に3DCG制作に熱中し出す」ようなことを珍しいものだと捉えているだけだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3DCGの勉強をすればするほどに、僕はBlenderに搭載された機能の1000分の1さえ使いこなせていないだろうという考えに囚われ、茫漠とした空間に1人置いていかれたような不安な気持ちになる。それでも何かを作る度に感じる喜びと、もっと作りたいという意欲が僕の背中を押してくれているので、挫折せずに続けられている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;僕は20代中盤になってようやく創作する喜びを知ることができたように思うが、それは大分遅咲きなので、甥っ子たち（7歳と3歳）にはもっと早い段階でそういう喜びを知ってもらえたらいいなと思ったりする。親ではないしあまり口出しはしたくないので、少し離れたところから彼らの成長を見守るような存在でいたいと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そういえば、再来週に長崎へ旅行するのだが、こうも暑いと観光するのもおっくうになる。喫茶店巡りのようなインドア風味の楽しみを開拓しようか。半年以上前に読み始めてまだ全然読み切っていないマルケスの『百年の孤独』を持っていこう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;学生時代や、大学を出て数年くらいはしょっちゅう旅に出ていた。それが今や、旅なんてものとはほとんど縁がなくなってしまった。ヒッチハイクしまくって奔放に旅をする友達の様子をSNSで見ていると、ああ何て素敵なんだろうと胸がいっぱいになる。僕も学生時代はヒッチハイクで旅をしていたことがあるが、あの頃の行動力はどこへやら。やれやれ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今月の後半に仕事でプロジェクトの異動がある。今のプロジェクトのリーダーが、いわゆるマイクロマネジメント癖がある人で、適当なところがある僕とは大変相性が悪かった。異動になってせいせいしたという感じではあるが、また一から新しい上司や同僚と関係を築いたり仕事を覚え直さなければならないのは面倒だ。異動までに、とにかくこの無気力症とも呼ぶべき夏バテを克服しなければ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;多分僕は同世代の大人の中では暇な人生を送っている方だが、それでもやらなければならないことは多い。面倒くさい、面倒くさいと思いながら何とか日々をやり過ごしている。20代にして結婚して子供を授かっている人も大勢いるのだと考えると、とても自分にはできそうにないと思う。（たかだか）夏バテでひぃひぃ言ってるのだから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし裏返せば夏バテしていられる程度には暇で自由であるということで、それ自体は悪くないなとも思う。とにかく何よりも自由であることを望んでいた10代の自分からすると、今の自分は結構満ち足りた状態の方かもしれない。自由、自由。僕はあまり積極的な自由を欲しがらないが、何かに行動や思考を制限されない消極的な自由を何より大切なものだと考えている。夏バテする（できる）自由を今年は楽しんでみることにするか。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>500日後に台湾に行くワニ</title><link>https://www.tanohana.com/blog/taiwan-wani/</link><pubDate>Mon, 01 Jul 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/taiwan-wani/</guid><description>&lt;p&gt;一年半後にワーホリで台湾に行くことにした。以前から台湾へのワーホリという選択肢はないわけではなかったけど、決して本気では考えていなかった。それが先日、「あぁ、台湾に行かないといけないな」とふと思い立ってしまって、それはあっという間に規定事項の予定へと変わった。別に台湾に行かなければならない理由なんていうものはなくて、しかし、今の自分には障害物もないわけで。31歳の誕生日を迎える直前に最後のワーホリに旅立つことになる（今の予定が変わらなければ）。これはいわゆる「ギリホリ（ギリギリで行くワーホリ）」というやつだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;元々ぼんやりとカナダにワーホリで行けたらいいなと思っていた。ただいまいち自分の中で決め手に欠けたというか、結局、それを実行に移すに足る理由もモチベーションは自分にはなかった。学生時代に抱いていた、漠然とした欧米社会への憧れの残滓が残っていただけなのかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;台湾にワーホリで行くにあたって、言語の問題は大きい。今、公用語の台湾中国語（台湾華語）の勉強を一から始めている。あと一年半、結構しっかり勉強しないといけないみたいだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あとは、願わくば出発までに個人でリモートの仕事を確保しておければいいと思う。台湾で働いてみたいと思うけど、現地での仕事探しがうまくいかなくてもしばらくはやっていけるという余裕が持てれば理想的だ。これまで、業務委託を受けて個人で仕事をしていた時期もあるが、それは個人的なツテで得た仕事が主だったし、個人的に営業をかけて仕事を取った経験というのはほとんどない。元々自分をアピールしたり売り込んだりのが極端に苦手だったし、積極的にお金を稼ごうとしてこなかったが、今後はそういうことにも挑戦した方がいいのだろうと思う。うまくやれそう気はあまりしないが、やはり何かを手に入れたいと思うならそれなりの努力はしなければならないだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本当に唐突に「来年末に台湾に行く」とか言い出したので、周りの人たちを驚かせてしまったと思う。自分自身急に決めたことなので、あまり正当な理屈をつけて説明できないのだが、何だか今は無性に台湾に行きたいし、それが自分にとっていいことなんだと思う。直感的に、これは正しい決断だと思う。そう思えているから大丈夫なはず。ここ数年、いまいち人生の方向性を定められずに彷徨っていたが、一旦の目的地を見つけることができ、何だか心に気力がみなぎる。元々不安症の僕だが、たとえそれが短い期間だけだとしても、鈍感になって旅に出ることにする。不安を感じるのは実に人間らしい資質だが、鈍感さも実にかけがえのない美徳の一つである。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>祭りが始まる(始まらない)</title><link>https://www.tanohana.com/blog/festival-begins/</link><pubDate>Wed, 19 Jun 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/festival-begins/</guid><description>&lt;p&gt;19時18分。ここはマクドナルド。まだ外は明るい。段々と日が長くなっていくのを横目に月日の上を歩いている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まるでプログラムされたかのように反復する日常を打ち破りたくて、エラーを起こしたくて、日々色んなことをやってみる。季節もまたプログラムのようなものに過ぎなかったら何だか虚しい。春の次は夏、その次は秋で、冬までいけば一巡。たまにエラー。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;昼休みには相変わらず公園に行くのが好きだが、梅雨が始まるので明日からは当分行けなそう。今日は公園の中心にある木に囲まれたベンチに横たわった。木漏れ日を浴び、日を通して半透明に光る葉を眺めるともなく眺め、耳に挿したAirPodsで聴くのは青葉市子の歌。目を閉じては、あてもない感傷にふける・・・。およそ10年前の、消化しきれないままに風化していく思い出が蘇る。10年後には、ほとんど忘れてしまっているのだろうか。それは嫌だな。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;曲が『海底のエデン』から『アンディーブと眠って』に変わるあたりで半分眠りにつく。幸い数分で目が覚める。危ない、昼休みが終わってしまう。何か愉快で心地よい夢の残滓が頭の中を泳いでいる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;終わらない日常を生きながら祭りを心待ちにしている。その祭りを、僕は見たことも聞いたこともない。ただ、それが来るのを待っている。ずっと待ってばかりいるのも退屈だから、日常的に小さな祭りを開く。国境に地雷を埋める任務中の兵士のように、あまり間隔を空けないように調整しながら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明日は雨雲が来る。それは祭りを連れてきてくれるか？ならば僕は雨に打たれることも厭わないし、ずっと雨が降り続けばいいと思う。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>痛みを伴うセヌアの旅、集団ストーカーと信仰</title><link>https://www.tanohana.com/blog/senua-faith/</link><pubDate>Thu, 30 May 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/senua-faith/</guid><description>&lt;p&gt;最近、PCで『Hellblade』というゲームをプレイしたのだが、これがかなり強烈な印象を残す作品だった。ヴァイキングの時代の北欧を舞台に、主人公の女性セヌアは死んだ恋人の魂を救うため死の国（ヘル）へ旅をする、というあらすじ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このゲームが独特なのは、主人公のセヌアが重度の精神疾患を患っており、断続的に幻聴・幻覚に悩まされているという点だ。十中八九統合失調症なのだが、この病こそが本作のゲームプレイ・ストーリーテリングの始点であり終点である。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セヌアの頭の中にはほとんど常に数人の声が響いている。「もうだめだ」とか「こんなところ来るべきじゃなかった」とか、「失敗した」とか、大体においてネガティブな言葉ばかりである。幻覚もひどく、画面に映る敵や風景なども、一体どこまで本当に存在するものなのか、あるいはどこまで幻なのか、プレイヤーも判断できない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;蛮族らしき格好をした男たちがどこからともなく現れ、激しい戦闘が繰り広げられるのだが、果たして本当にその敵たちは実在するのか、そんなことも定かでないままにセヌアは剣を振るう。そもそも、本当にセヌアには恋人がいたのか、それすら疑わしくなってくる・・・。自分でセヌアを操作しておきながら、だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一応、最後にはセヌアにとって前向きな結末を迎えるのだが、全編にわたって漂う不穏な空気感がとてもよかった。実際の精神病患者や医師からの取材をもとに制作されたらしく、非常にリアルな描写で統合失調症患者の見る世界を疑似体験できる。プレイしていて非常に疲れるゲームではあったが、たまにはそういう体験も良し。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実は、統合失調症という病気に昔から関心がある。もしかしたら、統合失調症の病人こそが真実を見ていて、一応まともだとされている僕たちが狂っていたらどうしよう？なんてことを考えるのが好きだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;市民に対して集団ストーカーを徹底的に行う集団が実際にあったら？あるいは、統合失調症と必ずしも関係しないが、本当にディープステートが国際社会を裏から全てコントロールしていたら？どうしてそれらが妄想だと言い切れるのだろう？もちろん、現実的にそうした謎の結社は存在しないという仮定を所与の条件として受け止めないと、共同幻想によって成り立つこの社会はあっという間に崩壊するだろう（アメリカが起きていることがそれだ）。ただ僕は、集団ストーカーやディープステートの存在を議題にした終わりのないディベートを脳内でやめられない。僕が実は狂人で、狂っているとされる人々こそが実は真実を見ていた、なんてことが現実になるのを心のどこかで待ち望んでいる。だって、そんなことが起きたら面白すぎるから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本来何も確かでない世界で、自分が見る（視る）ものを確かなものとして仮定しなければ人は歩めない。これは信仰においても同じようなことが言えるだろう。神が存在することを数式で証明することはできない。数式で証明される神がいたとしたら、それは逆説的に神ではないということの証明になる。神とは人間の理を超えた領域の存在であるから神なのであり、数式で証明された神に対する信仰はただの「現実認識」でしかないからだ。数式で証明できない存在をただ「信じる」営みによってのみ、神は社会的に存在し得る。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;僕はキリスト教徒であり、イエスを信じているが、イエスが神である証を肉眼で見たわけではない。統合失調症患者が幻の声を聴くように、セヌアが自分の生み出した敵と闘うように、あるいは平成初期の大学生が麻原彰晃を信じたように、僕は神を信じる。言い換えれば、僕が神を信じるように統合失調症患者は幻の声を聴き、セヌアは自分の生み出した敵と闘い、平成初期の大学生は麻原彰晃を信じた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神が信じられることによって神として存在するように、人間は見えないものを視ることによって人間らしくあれるのだろう。僕もセヌアもそういう意味で「人間らしい」のだ、なんてことを考えている。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>蟻の目線で見る世界</title><link>https://www.tanohana.com/blog/ants-perspective/</link><pubDate>Mon, 27 May 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/ants-perspective/</guid><description>&lt;p&gt;平日の昼休みに、近所の大きな公園でレジャーシートを敷いて寝っ転ぶのが好きだ。土日ならともかく、平日は人が少なく成人男性が1人で寝転んでいても目立たない（おそらく）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いつものようにレジャーシートの上でごろごろしていると、ふと、これは蟻の目線だ、ということに気づく。その時、僕は地面を歩き回る蟻と（ほぼ）同じ目線で世界を見ている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうか、この公園は僕にとっては一つのそれなりに大きな公園に過ぎないが、ここは一匹の蟻にとっては全宇宙の全てなのだ。例えば、僕の指に止まった蟻がこの公園の反対側にある手洗い場を目指すのは、僕が地球から数光年先にあるアルファ・ケンタウリ星系を目指すようなものかもしれない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この公園で生まれた蟻は外の世界を知らないまま死ぬのだろう。風に飛ばされ、人間に踏まれ、鳥に啄まれ、死んでいくのだろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみたら人間と大差ない。自然災害で死に、野獣に食われ、憎しみのうちの殺し合いに果てる。風の前の塵に同じ、ならぬ、公園の地の蟻に同じ。神の前に立つ人は、まさしく蟻のように小さく無力だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こんなことを取り留めもなく考えているうちに、あっという間に昼休みは終わりそうになる。僕は立ち上がって靴を履き、レジャーシートを畳む。このままどこかに旅に出る妄想などしながら公園を後にする。今度は何の目線になれるだろうか。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>大谷翔平と草原に埋められた馬</title><link>https://www.tanohana.com/blog/ohtani-and-horse/</link><pubDate>Sun, 07 Apr 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/ohtani-and-horse/</guid><description>&lt;p&gt;大学3〜4年の頃、とあるNPO団体でボランティア活動に参加していて、当時その活動に多くのエネルギーを注いでいた。ボランティアの内容は、いわゆる「いのちの電話」みたいなもので、電話で希死念慮を持った人の話を聴いて受け止めるというものだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;週末の夜になると、NPOの事務所に行って3〜4時間ほど受話器の前に座る。着信が来たら、軽く息を整えて受話器を取る。「はい、〇〇センターです」「・・もしもし？今すごくつらくて、電話してるんですけど」「そうなんですね、今すごくおつらいんですね」 こんな風に会話は始まる。電話は10分程度で終わることもあれば、3時間を超す長電話になることもある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大学3年の秋、とある月曜日の午前、いつも通りイギリス文学講読の講義に出席していた。講師の若い男性は、東大を出たあとに奨学金を得てイギリスの名門大学に留学し、英文学の博士号を取得したという非の打ち所のない経歴を持つエリートだ。帰国後は1年か2年慶応で教え、それからこの大学に赴任してきた、みたいなことを初回の授業で話していたと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;皺なくビシッと決めたスーツ、知的で軽妙なトーク、輝かしい経歴に支えられた自信、それらが壇上の彼を輝かせる。前の方に座る女子学生のグループの一人が彼に熱い視線を送っている。彼はそのことに気づいていて、瀟洒なジョークを飛ばす前には明らかに彼女の方をちらと見る。常にファンサービスを忘れないアイドルのようだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;教室を見渡すと、ここには小綺麗な格好をした学生たちばかりがいる。関西の裕福な家庭の子息が多く通う大学だし、僕の通っていた英文科は学内でも特におしゃれな学生が多かった。僕はなるべく彼らから浮かないように気を使っていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その日の講義の題材はシェイクスピアの『リア王』だった。戯曲の後半でリア王が発したセリフに着目し、そこに含意される様々な可能性を検討し考察する、といった内容。よくある英文科の講義。講師はどうやらいたくシェイクスピアを気に入っていて（英文学の博士でシェイクスピアのファンじゃない方が珍しい）、講義する声が熱を帯びているのが分かる。そこにあるのはいつもの光景だった。まだ眠くて退屈な月曜日。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、その日は何かが少し違って感じられる。土曜日の深夜（日をまたいで日曜日の午前）に電話相談のボランティアを終えたばかりで、まだ受話器の向こう側で発せられた、見知らぬ人間の「死にたい」の響きが頭に残っていた。つい一両日前に、この世の中のどこかにいる誰かが、縁もゆかりもない僕に「死にたい」と話した、そして僕はそれをしっかり聴いたのだ。誰かの「死」の近くに僕は確かにいたのだ、という実感。もしかしたら、電話を切ったあとに彼/彼女はそのまま自殺したのかもしれない。だとしたら生前最後に話したのは僕ということになる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それなのに、リア王？　400年前の、大して面白くもないこんな戯曲を読んで、一体何になる？こんなに今この社会は問題だらけなのに？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;空間の感覚が軋んで情緒が乱れる。何かが心につっかえている。いかん、今は大学モードなんだから、切り替えないと。しかしうまくできない。だんだん僕は苛立ってくる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何だ、一体リア王が何だ？シェイクスピアがどうした？この温室のキャンパスを一歩出れば、人々は様々な理由で悩み、この瞬間も誰かが首をくくろうとしているのだが。この教室にいる連中は何を呑気にやってる？いや、そういう俺だって一体ここで何をしているのか？弱い人に同情して味方になったつもりか？私立大学の文学部に通うなんて十分贅沢ではないか？俺は具体的に誰の何を助けている？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何だか世界が二つに分かれて身が引き裂かれたようだ。俺も周りの学生みたいにどこかの企業でサラリーマンになるのだろうか。そうはならずこのままずっと誰かの「死」の話を聴き続けるのか？他にはどんな道があるのだろう。考えても分からなかったが、考えないわけにはいかない。そんな自己煩悶に襲われるうちに授業は終わる。残ったのは徒労感と憂鬱だけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今思うと、あの日を起点にして僕は大学に通うモチベーションを無くしてしまった。最低限の単位を取るために大学に通い、学外の人と付き合うことが主になった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ちなみに、当時大学の同級生に上記のようなことを話したことがある。今こうしている間も誰かが死んでいくのに、僕らは小綺麗な格好をしてリア王について云々カンヌン言ってる、そんな現実が僕には飲み込めないと。彼は少し困った様子で「まぁそんなこと言っても誰かを救えるわけじゃないし、自分の人生を生きるしかないじゃないか」といった旨のことを答えた。そうだ、それは正しい、しかしそれは分かったうえで話したいのだが、と思ったが飲み込んだ。そんなことを人に話したのが間違いだった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから数年後にNPOの活動からは離れてしまった。サラリーマンとして成功もしていない。選挙には行ったり行かなかったり。社会に対してもはやほとんど何も期待しなくなった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あの日、英文学の授業を受けながら覚えた行き場のない思いは、うまく解消されることのないまま塵に埋もれて見つからなくなってしまった。懐かしみもしないが、まぁ、思い出すのも特に悪い心地というわけではない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人が年を重ねる過程には様々な段階がある。あの頃の僕は確かに何かしらの段階にあって、代わり映えのしない日々に飽きを覚えている今もまた何かしらの段階にあるのだろう。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>何も分からない</title><link>https://www.tanohana.com/blog/nothing-makes-sense/</link><pubDate>Sun, 17 Mar 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/nothing-makes-sense/</guid><description>&lt;p&gt;うまく眠れずに迎える朝と、早起きとを明確に見分けるのは難しい。川と海はどの地点で区別されるのか、あの夏の日の巨大な白雲はどこに流れ着いたのか？ニーチェは死ぬ瞬間、自身の人生における永劫回帰を受け入れていたのか？僕には何も分からない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;関西に住んでいたのに、おいしいたこ焼きの作り方も知らない。近所に花屋があることも昨日まで知らなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かつてあれだけ親しかったあの人は、なぜある日急に音信不通になったのだろう？僕に何か落ち度があったのか。今からでも連絡を取り合うことはできないのか。無理だろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう少ししたら布団を抜け出し、スーパーに買い出しに行ってシチューを作る。明日のことは分からないから、1時間後のことを考える。僕にも何かが分かるようになる日が来ればいいなと思う。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>罪と罰 -タコちゃんウインナー-</title><link>https://www.tanohana.com/blog/tako-chan-wiener/</link><pubDate>Wed, 28 Feb 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/tako-chan-wiener/</guid><description>&lt;p&gt;この日は久しぶりに仕事が休みで、何としても有意義に過ごそうと決意していた。早起きに無事成功し、コーヒーを飲みながらタコちゃんウインナーについてしばらく考えていたら、無性に絵が描きたくなってきた。本棚に無造作に差し込んであったアクリル絵の具セットを準備して、思いのままに筆を走らせてみる。すごく上手に岩牡蠣の絵が描けたので、乾かしてから額縁に入れてヤフオクに出品した。まだ午前中なのにすでに充実している、これはすごい一日になるぞと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;興奮が抑えられなくなり、着替えて家を出ることにする。自転車で最寄駅まで向かう間、ずっとタコちゃんウインナーのことを考えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地下鉄のホームでポンジュースを飲みながら電車を待っていて、ふと線路に目をやると、ポッチャマがレールの上をおもむろに歩いていた。おそらく、線路をファッションショーのランウェイと勘違いしているのだろう。かわいい奴だが、アホすぎていじらしくもある。声をかけようか迷っていたら、走ってきた電車にポッチャマは轢かれて死んでしまった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これはまずいことになった、と思い、私はその場から走って逃げ出す。街を自転車で駆ける。早く、一刻でも早く、家に帰ってクローゼットに逃げ込みたい。しかし、タコちゃんウインナーの影が私を捕らえる。だめだ、どうしてもタコちゃんウインナーのことが頭から振り払えない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;破れかぶれな私は、救いを求めて太陽を見上げる。太陽がいない代わりに、鈍色の脚立が空を泳いでいた。それ自体は昨今珍しいことではないが、よく見ると、お猫が目をつむって脚立にしがみついている。あぁ、あれは近所の多寡邑さんが飼っているお猫だ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;絶望が私に王手をかけ、投了の時が迫る。お猫がいなくなったら誰が多寡邑さんを食わせていくというのか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ごめんなさい、ごめんなさい、私のせいだ。私がタコちゃんウインナーのことばかり考えていたから、ポッチャマは電車に轢かれて、多寡邑さんちのお猫は脚立ごと空に飛んでいっちゃったんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。I&amp;rsquo;m so sorry.&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;- - - -&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;半世紀が過ぎたが、私は未だにあの日の後悔を忘れることがない。鹿の角を火に焚べながら、乾いた空気を腐った肺に吸い込む。そしてこれから始まる果てしない一日を思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;空には曲がった月が私を嘲笑うように輝いている。明日も寸分違わぬ一日が私を待つ。3年後も、来世紀も。ああ、タコちゃんウインナーをめぐる私の罪と罰を見よ！私の背中にくくりつけられた十字架はあまりに大きい。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>自由詩・短歌 2024年2月</title><link>https://www.tanohana.com/blog/poems-february-2024/</link><pubDate>Fri, 16 Feb 2024 12:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/poems-february-2024/</guid><description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;ほうれん草と恋&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ほうれん草のおひたし
あんまりに美味くて頭おかしくなりそう
まるで叶わない片思い・してる時みたい&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;考えてみたら
数少ない気が合うやつ、ほとんど
鬱病なのはどういうこと&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;くじらの腹の中でフライパンを握る
綺麗なまんまるの目玉焼き
のぼって月になる&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;西の海の船乗りを
故郷まで送ってから
ようやく眠りについた&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;不安症&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;丸いコードが
乳白の壁に突き刺さると
火花が散ってあれもこれも
燃えてしまうのではないか
そんな考えがむしろ身を焼くのです
どうしてそんなに平気なのか
あなたに今度訊いてみます&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;コーヒーに心&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;吸った息と君吐く息交じらない コーヒーに心冷えてく砂糖&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;わらび餅に呼ばれて目が覚めた
自転車漕ぐ祖母の丸い背中
ボウリング場から本屋へ
記憶の海で泳ぐ貝はすこし欠けている&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;あの潮騒は聴こえなくなった
代わりにここで鳴るのは
直径2.5メートルの風&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;パンダのできそこない&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;忍び込んだ檻の内側
いたいけなシロクマ
この右手の丸筆で君は生まれ変わる
しまった、途中で悲しくなった
僕はどうしようもないけど
そのまま帰った
パンダのできそこないが残された&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;ポチャ&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ポッチャマ「ポチャポ〜チャ〜ポーチャ！ ポチャポチャ！ポチャ！ポッチャ・・・？ ポ〜チャポ〜チャ〜〜！！ポーチャ！ポーチャ！」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私「ポチャピヨ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ポッチャマ「ピャッチャマ」&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;あ。わ&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;物語のはじめは一つの泡だった
すぐに二つに割れた
懸命に近づいて一つになろうとしたが
すぐにまたそれぞれが二つに割れた
いまや万里はなればなれ、ちりぢりの泡たち
まだエンドロールは流れない
神は席を立たない&lt;/p&gt;</description></item><item><title>風が吹いて頭を抱える</title><link>https://www.tanohana.com/blog/wind-blows/</link><pubDate>Fri, 16 Feb 2024 06:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/wind-blows/</guid><description>&lt;p&gt;早起きして弁当を作る。おかずは日によって変えるが、巻き玉子だけはいつも欠かさない。昼休みになると、近所の公園まで自転車で漕いでいってささやかなピクニックをする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;弁当を（あっという間に）食べ終えると、ベンチに仰向けに寝て空を眺めるともなく眺める。それは本当に小さくて穏やかな幸福で、こんな時間がずっと続けばいいのにと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Airpods Proを外部音取り込みモードにして、風の音や鳥のさえずり、子どものはしゃぎ声を背景に青葉市子の歌を聴く。心地よいノイズに乗せられた彼女の歌声は一層素敵に聴こえて、それがあまりにも完璧な調和なので、風が頬を撫でるたび頭を抱えたくなる。こんな気持ちを誰かに伝えて分かり合いたいと思うのだけど、その相手がいなくて寂しい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結局この美しい休憩は30分程度で切り上げて帰ることになる。残念ながら午後の仕事が待っている。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>ゴダール、安楽死、とりとめのない文章</title><link>https://www.tanohana.com/blog/godard-euthanasia/</link><pubDate>Fri, 16 Feb 2024 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/blog/godard-euthanasia/</guid><description>&lt;p&gt;(2022年9月、ゴダールが亡くなった直後に書いた文章)&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ゴダールが自殺幇助を受けて亡くなった（これは厳密な意味において安楽死と見なしていいのだろうか？まぁ一旦安楽死と捉えることにする）と聞いて衝撃的だったので、久しぶりに安楽死の是非について考えていた。すると、「人間の死のタイミングを人為的に可能な限りコントロールしようとする」点においては難病患者の安楽死も延命治療も変わらないのでは、という考えがふと浮かんだ（安楽死が合法な国を想定）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考えてみれば、両者とも本来いつ訪れるか予測不能な死を遠ざけるために行われ、法に認められることで社会の内側に包摂された営みである。一般的に安楽死と結びつけて自殺が語られることが多いが、自殺は法の枠外、人間社会の外へエクソダスする行為であるので安楽死とは区別されるべきだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;僕は自殺というのは社会へのテロ的な性格を持つと考えている。「死んだら全て終わりだから、つらくても生きて」と諭してくる鈍感な社会の壁に穴を空け、そこから外に出ていくのだ。自殺は社会を相対化し無力化するので、社会は自殺を恐れる。法の枠内で死を扱うという点において、安楽死は自殺よりもむしろ死刑に近い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;安楽死を肯定する意見に「生きる権利と同じく人間には死ぬ権利がある」というものがあるが、死の対となる観念は「生（きる）」ではなく「生（まれる）」であるはずなのでこれは的外れに思える。死と生（まれる）を対比させると、人間は誰一人として自分の意志で生まれてくるわけではないので、死のタイミングだけ自分の意志で決めるというのはアンバランスだ。まぁ結局のところ人それぞれ死生観が異なるのだし、同一の自己でも時と場合によって多分に揺らぐものであり、そんなアンビバレンスの葛藤こそが正常であろう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;要は、決定的な安楽死の是非を議論したところで答えが出ることはありえない。これは「原理的にありえない」ということであると断言してよいと思う。法の枠内における死の取り扱いという問題に対し、私達の社会は暫定的な決定を積み重ねていくほかない。「原理的にありえない」ということはつまり、議論のレベルの高低によって例外が生まれることはない、ということだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;安楽死の議論が一定以上の水準で行われる社会は知的倫理的に水準が高く、望ましい社会だとは思う。近年は日本社会も底が抜けてきた（馬脚を露わしつつある、と僕は書きたくなる）ため、うっかり安楽死の議論を始めようものなら、「コスト削減の観点から」「生産性の低い社会的弱者の安楽死」は「積極的に認めていこう」なんて言い出す輩が湧いてきそうである。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;僕は、日本は一般的な意味合いにおいて成熟した社会であると見なしている。一方、一定以上高度な安楽死の議論を行えるような成熟とはほど遠い社会であるとも考えている。ゆえに安楽死の議論など当分しなくてよいし、極端なことをいえば半永久的にしなくてよい、それが個人的な（身も蓋もない）所感であり、この無目的な文章の少し強引な結びである。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>About</title><link>https://www.tanohana.com/about/</link><pubDate>Mon, 01 Jan 0001 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://www.tanohana.com/about/</guid><description>&lt;p&gt;デジタル空間で彫刻をしている。Hand、Eye、Beast、Flow——スクリーンの向こう側に質量のないものを積み上げていく。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;公園のベンチに寝転び、蟻の目線で宇宙の広さを測り、マクドナルドで誰にも届かないかもしれない文章を書く。日常はいつも、もう少しで祭りが始まりそうな顔をしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テクノロジーと、ことばと、見えないものへの信仰で、なんとかやっている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;連絡は &lt;a href="https://www.instagram.com/tanoshiistory"&gt;Instagram&lt;/a&gt; まで。&lt;/p&gt;</description></item></channel></rss>