最近、PCで 『Hellblade』 というゲームをプレイしたのだが、これがかなり強烈な印象を残す作品だった。

ヴァイキングの時代の北欧を舞台に、主人公の女性セヌアは死んだ恋人の魂を救うため死の国(ヘル)へ旅をする、というあらすじ。

このゲームが独特なのは、主人公のセヌアが重度の精神疾患を患っており、断続的に幻聴・幻覚に悩まされているという点だ。

十中八九統合失調症なのだが、この病こそが本作のゲームプレイ・ストーリーテリングの始点であり終点である。

セヌアの頭の中にはほとんど常に数人の声が響いている。

「もうだめだ」とか「こんなところ来るべきじゃなかった」とか、「失敗した」とか、大体においてネガティブな言葉ばかりである。

幻覚もひどく、画面に映る敵や風景なども、一体どこまで本当に存在するものなのか、あるいはどこまで幻なのか、プレイヤーも判断できない。

蛮族らしき格好をした男たちがどこからともなく現れ、激しい戦闘が繰り広げられるのだが、果たして本当にその敵たちは実在するのか、そんなことも定かでないままにセヌアは剣を振るう。

そもそも、本当にセヌアには恋人がいたのか、それすら疑わしくなってくる・・・。

自分でセヌアを操作しておきながら、だ。

一応、最後にはセヌアにとって前向きな結末を迎えるのだが、全編にわたって漂う不穏な空気感がとてもよかった。

実際の精神病患者や医師からの取材をもとに制作されたらしく、非常にリアルな描写で統合失調症患者の見る世界を疑似体験できる。

プレイしていて非常に疲れるゲームではあったが、たまにはそういう体験も良し。

実は、統合失調症という病気に昔から関心がある。

もしかしたら、統合失調症の病人こそが真実を見ていて、一応まともだとされている僕たちが狂っていたらどうしよう?なんてことを考えるのが好きだった。

市民に対して集団ストーカーを徹底的に行う集団が実際にあったら?

あるいは、統合失調症と必ずしも関係しないが、本当にディープステートが国際社会を裏から全てコントロールしていたら?

どうしてそれらが妄想だと言い切れるのだろう?

もちろん、現実的にそうした謎の結社は存在しないという仮定を所与の条件として受け止めないと、共同幻想によって成り立つこの社会はあっという間に崩壊するだろう(アメリカが起きていることがそれだ)。

ただ僕は、集団ストーカーやディープステートの存在を議題にした終わりのないディベートを脳内でやめられない。

僕が実は狂人で、狂っているとされる人々こそが実は真実を見ていた、なんてことが現実になるのを心のどこかで待ち望んでいる。

だって、そんなことが起きたら面白すぎるから。

本来何も確かでない世界で、自分が見る(視る)ものを確かなものとして仮定しなければ人は歩めない。

これは信仰においても同じようなことが言えるだろう。

神が存在することを数式で証明することはできない。

数式で証明される神がいたとしたら、それは逆説的に神ではないということの証明になる。

神とは人間の理を超えた領域の存在であるから神なのであり、数式で証明された神に対する信仰はただの「現実認識」でしかないからだ。

数式で証明できない存在をただ「信じる」営みによってのみ、神は社会的に存在し得る。

僕はキリスト教徒であり、イエスを信じているが、イエスが神である証を肉眼で見たわけではない。

統合失調症患者が幻の声を聴くように、セヌアが自分の生み出した敵と闘うように、あるいは平成初期の大学生が麻原彰晃を信じたように、僕は神を信じる。

言い換えれば、僕が神を信じるように統合失調症患者は幻の声を聴き、セヌアは自分の生み出した敵と闘い、平成初期の大学生は麻原彰晃を信じた。

神が信じられることによって神として存在するように、人間は見えないものを視ることによって人間らしくあれるのだろう。

僕もセヌアもそういう意味で「人間らしい」のだ、なんてことを考えている。