二面性のある人が好きだ。それは人当たりがいいけど実はすごく性格が悪いとか、一途に見えて浮気性だとか、そういうことではなく、天使でありながら悪魔である、みたいなこと。
天使のような歌声を持ちながら、それに釣られた船乗りをあの世へ誘うような人。 そんな人に強く心を惹かれる。
なぜ惹かれるのか、長いあいだ分からなかった。 たぶん、自分がそうでありたいからだ。 歌うことと殺すことが、同じ口から出てくるような人間に。
青葉市子という歌手が僕にとってはそのような存在だ。 きっと彼女は歌いたいから歌っているだけで、その歌が美しすぎるから、結果として聴くものを死に近づける。 悪意がないところが、いちばん怖い。
美しいものは、たいてい何かを連れていく。 覚悟しなければならない。 何かを引き換えに差し出さなければならない種類の美が、この世には存在する。
ルーヴルにサモトラケのニケが立っている。 首がない。腕もない。 それでも、というより、だからこそ、あの像は世界のどこにある彫刻よりも前へ進んでいる。 失われた部分を補おうとして見る者は、いつのまにか自分の何かを差し出している。 完璧であるよりも、欠けているほうが、人を遠くへ連れていく。
青葉市子の歌も、たぶん同じだ。 それ自体で完成された美ではなく、聴いた者が進んで自分の生のほうを差し出してしまうような、そういう種類の美しさ。 連れていかれることまで含めて、美しい。
ニケよ、セイレーンよ、そして青葉市子。
探しているふりをして、僕はずっと、そちら側になりたいのだと思う。 そして、たぶん、なれない。 僕は選ばれし存在ではない。 分かっているけれど、だからこそ、つくっている。
つくることの痛みこそ生の実感である。