(2022年9月、ゴダールが亡くなった直後に書いた文章)

ゴダールが自殺幇助を受けて亡くなった(これは厳密な意味において安楽死と見なしていいのだろうか?まぁ一旦安楽死と捉えることにする)と聞いて衝撃的だったので、久しぶりに安楽死の是非について考えていた。

すると、「人間の死のタイミングを人為的に可能な限りコントロールしようとする」点においては難病患者の安楽死も延命治療も変わらないのでは、という考えがふと浮かんだ(安楽死が合法な国を想定)。

考えてみれば、両者とも本来いつ訪れるか予測不能な死を遠ざけるために行われ、法に認められることで社会の内側に包摂された営みである。

一般的に安楽死と結びつけて自殺が語られることが多いが、自殺は法の枠外、人間社会の外へエクソダスする行為であるので安楽死とは区別されるべきだ。

僕は自殺というのは社会へのテロ的な性格を持つと考えている。

「死んだら全て終わりだから、つらくても生きて」と諭してくる鈍感な社会の壁に穴を空け、そこから外に出ていくのだ。

自殺は社会を相対化し無力化するので、社会は自殺を恐れる。

法の枠内で死を扱うという点において、安楽死は自殺よりもむしろ死刑に近い。

安楽死を肯定する意見に「生きる権利と同じく人間には死ぬ権利がある」というものがあるが、死の対となる観念は「生(きる)」ではなく「生(まれる)」であるはずなのでこれは的外れに思える。

死と生(まれる)を対比させると、人間は誰一人として自分の意志で生まれてくるわけではないので、死のタイミングだけ自分の意志で決めるというのはアンバランスだ。

まぁ結局のところ人それぞれ死生観が異なるのだし、同一の自己でも時と場合によって多分に揺らぐものであり、そんなアンビバレンスの葛藤こそが正常であろう。

要は、決定的な安楽死の是非を議論したところで答えが出ることはありえない。これは「原理的にありえない」ということであると断言してよいと思う。

法の枠内における死の取り扱いという問題に対し、私達の社会は暫定的な決定を積み重ねていくほかない。

「原理的にありえない」ということはつまり、議論のレベルの高低によって例外が生まれることはない、ということだ。

安楽死の議論が一定以上の水準で行われる社会は知的倫理的に水準が高く、望ましい社会だとは思う。

近年は日本社会も底が抜けてきた(馬脚を露わしつつある、と僕は書きたくなる)ため、うっかり安楽死の議論を始めようものなら、「コスト削減の観点から」「生産性の低い社会的弱者の安楽死」は「積極的に認めていこう」なんて言い出す輩が湧いてきそうである。

僕は、日本は一般的な意味合いにおいて成熟した社会であると見なしている。

一方、一定以上高度な安楽死の議論を行えるような成熟とはほど遠い社会であるとも考えている。

ゆえに安楽死の議論など当分しなくてよいし、極端なことをいえば半永久的にしなくてよい、それが個人的な(身も蓋もない)所感であり、この無目的な文章の少し強引な結びである。